インフォメーション

労働あ・ら・かると

ホルムズ海峡の状況と第一次石油ショック当時の記憶

一般社団法人 日本人材紹介事業協会 相談室長 岸 健二

なんだかあっという間に戦争の時代になってしまった今日この頃ですね。
この原稿についても、作成しているときと掲載される日の間にどのような変化があるのか、まったく見通せず、休戦合意の覚書の報道を半信半疑で受けとめざるを得ない状況に囲まれて書いていると、過去の記憶が呼び起されます。

日本にとって戦争の臭いが今よりはもっと身近だったベトナム戦争が、パリ和平協定が結ばれアメリカ軍が撤退したことにより終結への道が見え、(実際にはその後2年続いてしまったのですが)なんとなく安堵感が生まれた年の春に、筆者は社会人となりました。
青二才もいいところで今思い出しても赤面する失敗も多々あったのですが、その話は別の機会にするとして、1973年に百貨店の文書課法務担当に配属された筆者は学生時代の不勉強を後悔しながら、それまで見たこともなかった不渡りとなった手形の現物、稟議書なるものや添付された契約書案の点検、商標を巡る紛争の対処策を考えることに追われる日々を新米社会人として過ごしていました。
今のようにあっという間になんでも検索できてしまう時代ではありませんから、商標を巡っての紛争では「わが社が使用したこのブランド名は普通にある名詞使用であると主張できないか、できないと商標法違反をしたことになる。」との上司からの指示を受け、特許庁や弁理士事務所、都内の大きな図書館に足を運び、重たい英文辞書をいくつも調べました。
「この名前は普通の名詞ではなく、登録された商標ですからその無断使用については訴訟を起こされたら負けます。」との結論に達して説明報告した時の、宣伝広告担当者の苦虫を嚙みつぶしたような顔は今でも忘れられません。
その担当者の前では黙っていた法務担当の上司から、後刻「よく調べた」と褒められましたが、「率直な物言いは敵を作る。同じことを言うのでも相手の立場を配慮した言い方を覚えろ。」と厳しく叱られたことも懐かしい思い出です。

その秋、第4次中東戦争の勃発によって、いわゆる石油ショックが起きました。
アラブ石油輸出国機構がイスラエルを支援する国々への石油輸出制限や生産削減を実施して原油価格がわずか数ヶ月で約4倍に急騰。エネルギー需要の多くを石油に依存していた日本への影響は甚大でした。
日本では「狂乱物価」と呼ばれるパニック的な物価上昇が発生し、トイレットペーパーや洗剤などの買い占め騒動が起きました。
朝、百貨店に出勤すると、事務机に向かう間もなく「洗剤売り場に顧客が殺到して危険だから雑踏整理の応援に行け」「お客様用トイレの紙が無くなっているからすぐ補充しろ」と店舗内の混乱整理に駆り出されて、自分の担当業務に手が付けられません。
法務担当の上司からは「雇用されたということは、指示があれば違法行為でなければなんでもいうことを聞くということなのだ。」と言われ、今でいうメンバーシップ雇用をいやでも思い知らされたわけです。
文書法務担当の仕事でも、石油危機に対処すべしと行政機関からの矢継ぎ早の要請が(当時は電子メールはなかったので文書で)着信し、回答書の作成業務がありました。
「電力節約のためにネオンサインを消灯せよ」とか「百貨店の開店時間を遅くしてエネルギー消費を押さえられないか」といった指示問合せが通商産業省(今の経済産業省)からあり、回答書の作成に和文タイプ室(今は姿を見なくなりました!)に原稿を持って小走りで行った光景が脳裏によみがえってきます。
人事部労務担当とは「開店時間を1時間遅らせるのだから、勤務労働時間をその分短縮して時間単位のレイオフができないか」といった話もしました。理屈上は可能だったかもしれませんが、結局労働組合の猛反対で沙汰やみになりました。
「大量の青田買い」の時代ですから、高卒短大卒大学卒それぞれ史上最多の内定を出していて、翌春新卒入社予定者をどうするかということも当然話題になりました。
弁護士さんや労働基準監督署のOBの社会保険労務士の方と相談し、内定通知書に入社日を明記してなく(今だったら許されないでしょうね)、入社教育のキャパシティの関係で従来から新卒入社日を3月16日、4月1日、15日と三段階で設定していたことも幸いして、労働組合との折衝もあった筈だと思いますが、入社日を従来より遅らせることで対処でき、内定取消しを行わないで済んでほっとした記憶が残っています。
次々と発生する目前の課題を、夢中で上司の指示を仰ぎながらではありますが、世の中全体を見ることもできない未熟者の筆者が、よく大失敗をせずにやり過ごすことができたと首をすくめながら振り返っています。

今回のホルムズ海峡の状況を巡っての様々な報道を見聞き読みしていると、様々な点で、当時の教訓が生かされた政策が実施されています。
石油に過度に依存した政策から脱却しようと、エネルギー源の多様化が進められてきましたし、「省エネルギー政策」「エネルギー安全保障」という言葉もニュースでよく聞かれています。石油備蓄法により制度化された国家石油備蓄や石油会社による民間備蓄は、普段あまり目立たないものでしたが、早速注目されています。
石油ショック後に設立された国際エネルギー機関の枠組みに基づき、世界的な供給不足の際には他国と協調して備蓄を放出する国際的な共同歩調体制が整えられていることも再認識できました。
これらの教訓化の有効性や、現在実施されている対策の評価については、もう少し時間が経過してからでないとすることはできないでしょうが、今のところ50年以上前のような状況が再び出現してはいないことは人びとの知恵による成果ではないかと思い、一抹の不安はもちろん残っているものの、少しうれしく思ったりもしています。
当時の洗剤パニックやトイレットペーパー狂乱は、消費者が不安にあおられて買いだめに走ったことが一義的な原因だと思いますが、現在の「流通目詰まり」によって、あるはずの物資が必要な利用者に届かない原因は何なのだろうかなど、第一次石油ショックの時に見た社会の光景の記憶をたどりながら、思いを巡らせています。

以上

(注:この記事は、岸健二個人の責任にて執筆したものであり、人材協を代表した意見でも、公式見解でもありません。)