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手作りケーキとセクハラの背景事情

東京パブリック法律事務所 外国人・国際部門

弁護士 板倉由実

 男女雇用機会均等法、さらに女性活躍推進法が制定されても、企業内でセクハラ研修が実施されても、一向に減らないセクハラ。なぜセクハラが減らないのか日々のモヤモヤをぼやきたいと思います。セクハラ事件を受任すると(もっぱら被害者側)、加害者や会社側にそれなりの問題意識や反省がある場合、ほとんどの事案が、裁判提起前に和解で解決します。つまり裁判になる事案というのは、加害者・会社側に、自分たちのしたことが「セクハラである」との認識が全くない事案ということになります。セクハラの認識が全くない、という場合、事案類型により2つに分かれるように思います。

 一つめが、性差別的な言葉による事案の場合。加害者が「いちいち騒ぎ立てるほどのことではない。冗談だ。本人だってその場で抗議しなかった。一緒に(猥談に)盛り上がっていた」などと抗弁する場合です。

 二つめが性交渉を含め直接的な性的接触があった場合です。加害者が「合意の抗弁」、「恋愛の抗弁」を主張してくる場合です。牟田和恵さんの「部長、その恋愛はセクハラです!」(集英社新書)でも問題提起されましたが、加害者が「これは恋愛だった。合意の上だった。嫌がっていなかった。寧ろ女性の方から誘ってきた」などと本気で思っている場合です。恋愛の抗弁が主張されるたびに、あまりにポジティブすぎる勘違いぶりに頭がクラッとするのですが、決して珍しい主張ではないために、この加害男性・企業に共通した「男の勘違いぶり」の背景にあるものは何なのだろう、一方で、嫌で嫌で仕方がないのに、嫌だと言えない、むしろ好意があるふりをしてしまう女性の心理の原因や背景は何なのだろう、と考えるようになりました。

 答えは、社会全体や組織の価値基準が男性中心だから、なのですが、問題はこの根本的な男性中心の価値観に基づく評価基準をどうやって変えていくかなのです。というのも、女性自身が男性視点での判断基準・価値基準を内在化し、受容しているからなのです。かくなる私を含めて、女性は、職場や友人関係、恋人同士、夫婦関係、その他、あらゆる社会的関係性において、男性にどう評価されるかということをとても気にしているように思います。女子会ではざっくばらんに自分の気持ちを話せるのに、男性の前では堪えてしまうこと、「あー、この人は男性だし、言ってもわからないだろうなー」と思ったこと、多くの女性の皆さんが経験済みかと思います。これは派遣社員や契約社員と言った地位・立場が不安定な非正規労働者のみならず、弁護士など社会的には自立している女性にもこの傾向があるように思います。

 最近、気になる現象が、手作りのお菓子を職場に持ってくる女性です。混ぜて焼くだけの簡単なケーキ…というのは余計な一言であるとしても、「なぜ職場で家庭力をアピールするのか?」と私には理解不能なのであります。お菓子を持ってくるのみならず、わざわざ、一口サイズに切って、一人ひとりに「どうぞ、どうぞ」と笑顔で配り歩く女性もいるらしく、そんな女性の姿の様子を見たり、聞いたりすると、なんとも、いたたまれない気持ちになるのであります。「あー、職場でそんなことしなくていいのにな。誰も頼んでないのにな」と。

 キャリアの女性についても、さすがに一口ずつカットして配りまくることはしないでも、「私もこんな女らしい、家庭的なところあるのよ」というアピールが見え隠れしているような気がしてなりません。で、誰にアピール?というと、主に男性陣なんだろうな…と思うわけです。職場に手作りのお菓子を持ってくるのって、9割女性ですからね。

 という具合に、社会的地位や収入に関係なく、多くの女性は、男性目線の評価基準を自ら内在化させており、それが、明確に男性からの性的誘いかけや性的冗談に拒否や抗議の意思表示が出来ない、拒否するどころか好意があるふうに装ってしまう背景なのだろうと思います。

 もちろん、女性が意思表示したり、拒否することができない雰囲気を「気遣い」、「癒やし」、「料理のうまさ」を「女性らしさ」の特徴として求め、作り出すのは、男性の方ですから、まずは男性の思考回路を変えることが重要なのですけれども。

 それでも、セクハラ事案を見ていると、女性の被害者の方も、職場の男性(上司)に対して、友達同士のようなフランクな表現や上司や年長者に対する尊敬を超えて、「好意」を誤解させるような表現、絵文字付で私的にメールのやりとりをしている場合があり、「確かに、男性は勘違いするよな」という事案も多々あります。程度にもよりますが、女性として男性から関心を持たれたり、モテている実感を得たりすることは、嬉しい気持ちもあるのでしょう。しかし、後になって「本当は嫌だった」、「セクハラだ」と言っても、裁判所はなかなか認めてくれないのです。

 ところで、セクハラ裁判の時、裁判所が慰謝料認定をする際、客観的な個々の行為だけを対象に違法性や被害者への打撃の程度を評価する傾向があるように思います。

 しかし、セクハラ被害者がセクハラを受ける精神的打撃の原因というのは、個々の加害行為そのものの他に、尊敬していた上司や同僚などから、職場の対等なパートナーとして見てもらえなかったこと、性的な対象としてしか見られていなかったことを思い知ったことのショック、自分は苦しんでいるのに、加害者は何事もなかったように振る舞い、周囲からも信頼を得ている、そんな加害者と今後も一緒に働かなければならない、少なくとも加害者が否応なしに視界に入ってくる職場で働き続けなければならないことへの屈辱や自分の立場の弱さの実感のなど、複雑かつ複数の要因があるように思います。

 ところが、裁判所は、セクハラから派生する様々な心理的負担や労働環境の変化ということはあまり考慮していないように思います。そこが、日本の裁判所ひいては男性社会のセクハラ・性差別への軽視につながっているのだと思います。

 いずれにしても、セクハラによって受ける打撃は、精神的にも社会的にも経済的にも被害者である女性の方が大きいように思います。女性自身が「男性から選ばれる性」、「男性から評価される性」という価値基準から解放されるには、どうしたらよいものか、またモヤモヤとしてくるのであります。