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転職をめぐる哀しい裁判情景

一般社団法人 日本人材紹介事業協会 相談室長 岸 健二

 先月1月20日21日と、東京地方裁判所刑事部にて開かれた法廷を傍聴する機会がありました。同じ建物内でオウム真理教関連の裁判員裁判の法廷があるとのことで厳しい警戒の中でしたが、私が傍聴したのは「不正競争防止法違反」という罪状についての裁判でした。比較的大きな法廷で、ざっと見たところでは約40人分の傍聴席がありましたが、傍聴券の抽選とまではいかないものの、ほぼ満員の状態でした。
 事件は、マスコミでも報道されていますのでご記憶のある読者の方々もいらっしゃると思いますが、大手電機メーカー提携先の米系パートナー社員が韓国系半導体製造業に転職した際、重要な企業秘密(NAND型フラッシュメモリの技術に関する機密情報)を不正に持出して、転職先に提供したということを巡っての刑事裁判です。
 もちろん私が傍聴したのは、その裁判の極々一部の証人尋問の内の更に一部だけですし、有罪無罪の判決はすべての手続きを終えて裁判所が出すものですから、これだけのほんの一部で事件の全容については語れないものの、二日間に亘って傍聴した光景は、なかなか考えさせられるところの多いものでした。

 まず印象深かったのは、傍聴席のグローバル化です。
事件がメモリーについて特許を持つアメリカに本拠地を置くNASDAQ上場のグローバル企業、そこと共同で製造を行っている日本の歴史ある大手電機メーカー、韓国の大手半導体製造業と、関係者が各国にわたっているからでしょう、傍聴席で小さくささやき合う声は、少なくとも韓国語、英語、日本語の三カ国語が聞こえましたし、外見から欧米系と見える方、韓国人と思える方も座っていました。その中で日本の大学の法学部の学生さんたちと思われるグループが、熱心にメモをとりながら傍聴していることは、好感の持てる光景でした。

 証人の方に対して裁判長は本人であることの確認をし、偽証罪や証言を拒否できる場合(証言によって証人自身が刑罰に問われる可能性がある場合や、証人の近親者など法律で定める一定の身分関係にある者が処罰されるおそれのある事柄については,証言を拒否することができますが、わざと嘘の証言をすれば偽証罪で処罰されることがある)について説明した後、「良心に従って真実を述べ、何事も隠さず、偽りを述べないことを誓います。」と宣誓、尋問に移りました。この法律による裁判の特徴ですが、裁判長は「証人カードに書いてあることは間違いありませんね。」と言うだけで、証人席に座った方々の属性は傍聴席からは、その内容は明確には分からず、証言内容から推測することになります。

 証人のひとりは、被告の同僚だった男性のようで、推測するに同じ日本の大手電機メーカーもしくは提携先に在籍していて、被告と同じく韓国系半導体製造業に転職した方のようでした。韓国の工場の屋上で、被告と転職後の年収についての話題となった時に、被告が重要データを持ち出していたこと、それによって被告の転職後の給与待遇が(日本企業時代には大差なかったのに) 自分より良いことを知ったと証言していました。この同僚の通報も、本件が明るみに出たきっかけの一つとなったようです。

 また別の証人は、データを盗まれた側の日本の大手電機メーカーの管理職の様子でしたが、この間の本件に関連する自社のフラッシュメモリの売上減が、すべて被告の技術盗用によるものという主張で、さすがに被告の弁護人からは「他の半導体メーカーの伸長による売り上げ減まで、被告の行為の結果という主張ですか?」と反対尋問されていました。この証人は、勤務先から証言内容を指示されているのかのように、手に書いたメモ(後ほど「数字に性格を期すためのメモ」と言い訳をしていましたが)を読みながら証言していて、裁判長から「メモではなく、貴方の記憶と知識によって証言してください。」と厳しい口調で指摘されていました。
 本件は、当然被告の転職先とも、1091億円という大きな額の訴訟(民事の損害賠償請求)になっていた訳ですが、こちらの方は昨年12月に約330億円の支払いで和解したと報道されています。しかし被告本人への損害賠償訴訟は取り下げていないようです。
 この日はすべて傍聴する時間がありませんでしたが、これらの法廷風景だけを見ても、何ともやるせない気持ちになりました。

 もちろん泥棒はいけません。自分の技術力に自信があればデータなど持ち出さなくても、自分の頭脳・知見を駆使して転職先で技術開発を行い、それに相応しい待遇を要求すべきであって、浜の真砂より多いと詠われた盗人になることを正当化できる訳ではありません。

 技術者の転職にあたっては、人材紹介事業者は旧在籍企業の就業規則や守秘義務について十分守るようアドバイスをすることはもちろん、転職者を採用する企業に対しても「人材の才能を雇用するのであって、データを持参させることはないでしょうね。」との念押しを従来以上にしなければならない時代になったようです。

 しかし、報道によれば(上記法廷での一部の主張の中の文言でも)被告が企業秘密を持ち出すにあたっては、1回2回ではなく何回にも分けてUSBメモリーに必要データをコピーすることが必要だったとされていることは、「盗まれた側」の管理体制、セキュリティー感覚も不十分だったと思われます。また、最先端技術分野である半導体の製造について従業員のたったひとりが、1000億円を超える価値の技術を丸ごと盗み他企業に提供するというのが果たして可能なのかということも気になります。
 従業員や職場に出入りする人間が「魔が差さないような環境作りや処遇」がいかに大事かということを、今回の告訴企業やデータ流出元を見ていて、つくづく思い知らされたものです。
以上

注:この記事は、岸健二個人の責任にて執筆したものであり、人材協を代表した意見でも、公式見解でもありません。)