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今月のテーマ(2009年10月 その5)
過労死・職場うつのタイプとしての「メランコリー親和型」
今回は、「メランコリー親和型(しんわがた)」という耳慣れない言葉を紹介しよう。これは、精神病理学の分野で確立されてきた概念で、かんたんにいうと、うつ病になりやすいタイプのことをさす。だが大切なのは、このタイプは、日本においては特殊に病理的な人たちではなく、典型的なまじめ人間の模範であるということだ。その「まじめで几帳面、責任感が強く他人に非常に気を遣い、頼まれたら嫌といえない」といった性格は、日本人として伝統的に尊ばれてきたものである。
過労死や過労自殺にいたるのは、圧倒的にこのタイプである。そして、最近の職場うつの増加は、さらにこのタイプの人たちの苦悩が日常化していることを示す。メランコリー親和型が職場で孤立する傾向が深刻化している。しかも、伝統的な日本人像が変容し、もはや彼らが多数派であるとはいえない時代になってきた。
メランコリー親和型のうつ病的な病理の発症を防いできたのは、日本的な共同性そのものである。職場でいえば、助け合いと協調性に富んだチームワークの精神である。そこでは、メランコリー親和型の気くばりと思いやりがじつに見事な役割を発揮する。仲間や同僚の仕事ぶりに配慮し、会社に誠心誠意貢献する。その働き方では、やりがいをともなう過労はあっても、うつ病や死にいたる病理にはつながらない。彼らは、職場の中核的な働き手として、あるいは縁の下の力持ちとして活躍する。
そういったメランコリー親和型中心の職場環境が徐々に崩れてくるのが、1980年代であったと思われる。それは、日本社会全体でも集団性や共同性にかげりが見えてきた時代である。いじめや不登校のような学校の病理現象の本格化も、この時期にはじまる。共同体としての家族や地域の変貌も、この頃に一気に加速する。
その一方で、『気くばりのすすめ』がベストセラーになったのも、この時代である。80年代における日本的な共同性の揺らぎは、解体の一途をたどったのではない。気くばりが失われかけているからこそ、古い世代を中心にその美徳が称揚される。メランコリー親和型にかわる新しいタイプは、まだ主流ではなかった。それが、会社人間が燃え尽きるバブル期を境に、何かが決定的に変化したのである。
職場の共同性が揺らぎはじめると、メランコリー親和型は弱い存在となるのである。いままでは、他人に気を遣い手助けをすると、自分もまたその返報を受けるという相互信頼、相互配慮の関係があった。それが、メランコリー親和型の一方的な尽くし損といった状況が生まれてくる。信頼と配慮の相互性が失われ、孤立無援の孤独な働き方を余儀なくされる。
メランコリー親和型の人たちが、誰にも相談できずに仕事を一人で抱え込む状況に追い込まれると、病理的な危機が迫ってくる。気くばりの精神は仕事の背負い込みを生み出し、責任感の強さは仕事上の自責の念につながる。「やってもやっても仕事が終わらない」「俺ががんばらなければ仕事が回っていかない」「自分のミスで取り返しのつかないことになってしまった」「職場のみんなに迷惑をかけて申し訳ない」。責任感と罪悪感から、うつ病的な病理が出現してくる。
これを読んで共感したり、自分のことが書かれていると感じるあなたは、間違いなくメランコリー親和型かその傾向の強い人である。逆に何のことだかわからないとか、何を時代遅れなことをいっているのだと思われる読者は、すでに新しい日本人感覚の領域に属する方々であろう。そして後者のタイプが増え、前者が少数派となっているからこそ、過労死や職場うつの問題が内にこもってしまうのである。
それでも職場のうつ病は、テレビ番組でも取り上げられるほど一般化してきている。これは、死にいたる以前にこころの危険信号が発せられる状況が広まっているからであろう。メランコリー親和型は少数派になりつつも、彼らの危機は日常化している。しかも、その危機を共感をもって受け止め手助けしてくれる上司や同僚が、多忙さと感覚の相違からますます減ってきているのである。
日本の職場は、親身になって相談にのったり、相手のことを気遣って仕事を回していくだけの余裕をすでに失いつつある。個人中心の競争的な成果主義をはじめとする昨今の人事労務管理のもとでは、それも無理からぬことであろう。だからこそ、メランコリー親和型にかわる「強い個人」を基調とする新しい日本人像の確立こそが求められているのかもしれない。もはや、かつてのような日本的な職場と人材を復権することは不可能であるようにも思える。
さきに、このような職場や人間像の変化が兆しはじめたのは、80年代であると書いた。この頃に、日本はいわゆる「豊かな社会」となり、欧米へのキャッチアップという戦後の目標をまがりなりにも達成した。コンビニにみられるような消費中心の経済活動は生活の「個人化」をおしすすめ、旧来の地域共同体の絆も弱まってくる。人間関係の希薄化によって、思いやりや気配りに敏感でない人々が増えはじめた。
この「他者への配慮」は日本社会全体では弱まったようにみえるが、閉鎖的なミウチ集団内部では逆に以前よりも強まっている。派閥や小グループの内側では、互いに相手に気を遣わないといつ排除されるかもしれない。他人を大事に思い大切に扱うという意味での思いやりよりも、自己の利益と保身のために汲々とした「世間」感覚を甘んじて受け入れているのである。
多くの人たちが、競争的な社会環境のもとで、小集団の世間感覚にのっとって自己の保身をはかろうとしている。これに対して、少数派となったメランコリー親和型の人たちは、ほんとうの意味での古きよき日本的な他者への配慮を貫こうとして苦境に陥ってしまう。その結果としての過労死や過労自殺は、あまりにも真面目すぎる死として、世間の目には要領の悪い脱落者とすら映るのかもしれない。
メランコリー親和型にとっても納得のできる新しい生き方はどこにあるのだろうか。
【大野正和 大阪経済法科大学講師、職場研修指導員】
「草食系」のための日本的経営論
