労働あ・ら・かると

 当コーナーでは、専門家による労働政策、労働経済情勢等に関するレポートを、随時紹介させていただいております。専門家の方々の明快な主張、独自の切り口による鋭い論評等が満載のレポートとなっています。ぜひ、ご覧になって下さい。

今月のテーマ(2009年9月)

「過労児」だった私が過労死問題を「研究」すること

 私が過労死問題に本格的に取り組もうと決意したのは、「過労死を考える家族の会」編集の『死ぬほど大切な仕事ってなんですか』という手記を読んだときであった。夫が亡くなってはじめての結婚記念日に長女誕生という妻の文章には、涙をこらえきれなかった。そこには、同情というよりも「生き残った者の責任」すら感じさせられた。悲しみを越えて何をなすべきなのかと自問した。

 実は、「生き残った」のは私自身なのである。

 私は超進学校で受験エリートとして教育を受けた。だが、毎日毎日の勉強とハードな部活ですり切れてしまった。過労死の現場に出る以前に「過労児」となってしまったのだ。何とかかんとか大学は卒業したが、まともには働けない。過労ではなく寡労である。

 高校までは、言われたこと与えられたことをただひたすらにこなすだけの素直で真面目な受験戦士だった。企業戦士にはなれずに受験戦士として挫折した。おかげで「企業社会」に対して批判的なまなざしがもてた。

 過労死する人たちは、真面目で責任感が強くとてもやさしい。だからこそ家族はよけいに悔しいのだ。真面目に働いて死んでしまう理不尽さ。私自身も真面目に勉強して死にそうになった。だが、私は誰の命令でそこまで必死になったのだろうか。

 誰も私に「勉強しろ」とは命じなかった。母親でさえ。まわりの期待やプレッシャーによって走らざるをえなかった。優秀な成績をとればとるほど、手を抜くことは出来なくなった。部活でもサボることはまわりのひんしゅくを買った。何のために勉強しスポーツするのか考える余裕すらなかった。

 あれから30年以上が過ぎた。まだ生きている。家族もいる。過労死研究者として身を立てていこうと決意した。私や過労死した彼(女)らを殺そうとした真犯人は誰なのか。まだ答えは出ない。だが、「生き残った者の責任」だけは果たしたいと思う。

 ある学会報告で同席した、過労死裁判の第一線で活躍されている川人博弁護士は、「経済学・経営学の研究者は、どうしてもっと過労死問題を研究しないのか」とわれわれに対して注文をつけられた。

 過労死を社会科学的に分析した研究は、あるにはあるが、論争的・学説的に発展してはいないのが現状だ。むしろ行政や裁判を通じての社会的な問題提起を後追いするかたちで、一定の議論が展開されているといってよいであろう。

 しかし、研究者の側からのより一層の問題解明に向けての大きな議論の盛り上がりがないのはなぜだろうか。それは、川人氏も言われているように、労働現場つまり職場での労働実態に肉迫する研究姿勢が弱いからである。

 研究者は、自らの「研究労働者」としての労働意識を素直に過労死の問題に向けてみてはどうか。現場の労働者を何か特別な存在として考察の対象とするのではなく、われわれと同じ仕事にいそしむ一勤労者として共感を持って相対するべきではないか。
私が、何を言おうとしているのかわからないという読者もおられるであろう。もう少し説明しよう。

 周知のように、まじめな研究者の過労状態も日常化しているのだから、自分たちも同じ問題を共有しているのだと自覚すればよいのである。研究者は「自分」の外側に自分とは直接関係ないものとして研究対象を設定しがちである。ここでは、労働者とは自分とは違った世界に生きていると暗黙のうちに考えてしまっているのである。

 そうではない。研究労働者もサラリーマンも政治家も、みんなが「働く」ことにおいて共通の何かを背負って生きていることに気づかなくてはならないのだ。その地点からはじめて、「労働問題研究」も出発できるはずだ。労働者を「階級」として尊重したり、指導すべき大衆とみなしたり、自分とはどこかで切れた客観的対象と考えるのはもう終わりにしようではないか。

 大学教員の場合でも、研究という仕事をする上で、指導関係にある実質上の「上司」や「部下」をもっているであろうし、研究仲間という「職場の同僚」や原稿締切という「納期」も存在する。査読という「管理」もされるだろうし、執筆の「ノルマ」もある。
家庭や子どもを犠牲にするような「働きすぎ」の研究者も見かける。不規則労働や深夜労働も当たり前であろう。職場のつきあい酒や教授会の根回しなどに到っては、かつての「日本的経営」そのものである。

 研究者よ、綺麗事の「分析」はやめて、深刻に自らを振り返りたまえ!

 そういう自己認識があってはじめて、労働実態に対して、素直に情熱的に迫ることができるのだ。過労死を何とかして根絶しようと考えるのであれば、なぜ自分が過労状態に陥らざるをえないかを、率直に反省しなくてはならない。他人事ではない!

 それがリアリズムだ。自分の働くあり様を自ら分析の俎上に上らせることを通じて、職場と労働のリアルな実態がまざまざと見えて来るであろう。「労働過程における主体分析の枠組み」はここから始まる。

 さて、なぜ研究者の側からの過労死研究の盛り上がりがないのかは、もはや明らかであろう。それは、「自分」を棚に上げたリアリティの欠如によるものだ。

【大野正和 大阪経済法科大学講師、職場研修指導員】
ひきこもりと過労死の日本的経営論:http://www.geocities.jp/japankaroshi/